日本語教室って、必要なの?

母国語のこと

Posted on 1/17/2012 at 12:15:47 PM

私たちは生まれたときから、耳許で、日本語を聴きつつ育ちます。最初は音楽として、でしょうか? それから、少しずつ、生活するための用語として、日本語を聴いていきます。音を聴いて、周囲の情報と重ね合わせて、意味を探る、という作業を繰り返しつつ、自身の思考体系を、日本語で作り上げて来ました。生まれたときから、殆ど、一定の言語だけを聴きつつ育ってきているわけで、一定の年齢になってから・・・例えば、7歳になって小学校へ入学してから、これまで、自身の思考体系を組み立ててきた一定の言語以外の言語を学ぶ、という段になって、どの程度の困難を感じることになるでしょうか? 例えば、英語圏で生まれ育った人間が、一定の年齢になって、必要に迫られて、日本語教室で日本語を学ぼうとするなら、私たち日本人が、英語教室で英語を学ぶ場合に比して、苦労する量は多いと思われます。私たちが、日頃英語に接する頻度と比べれば、彼ら英語圏の人間が日本語に接する頻度というのは、はるかに小さいと思われるからです。日本語教室で日本語を学びたい、と考えている人、というのは、日本でビジネスを展開する、だとか、しつつある、だとか、あるいは、日本や日本語が大好きで、日本語を学びたい、という純度の高い欲求である、だとか、そういった理由であることが多いでしょうね。いずれにしても、自ら求めて、苦労をするわけですから、それに見合うだけのモチベーションがなかれば、日本語教室で日本語を学んでいくことは困難であると思われます。

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日本語教室の位置

Posted on 7/18/2011 at 12:07:13 PM

“ニーズと言い方をするなら、私たち日本人が英語教室に対して感じる効用、ということとは、種類が異なる、というところまで突っ込んで言ってみてもいいかもしれません。で、あるとすると、例えば、英語圏で日本語教室を開講するために、事前に、日本語のセミナーを開いて集客しようとするなら、集客される現地の人は、数は限られるかもしれないけれど、日本語教室に対して、強力なニーズを持っている人が揃っている、ということが予想されそうですね。と、なれば、集客の方法も、日本語教室に対するニーズの質にあわせて構築していくことが求められるでしょう。日本文化を普及させる、というような目的でもって、日本語教室を開く、というようなやり方が、この場合、相応しいかどうか・・・相応しいものであるなら、これはこれで、面白いやり方であると思われます。” 例えばアメリカで、日本文化を紹介していくという目的も抱えつつ、日本語教室を開講する、ということですが、こういう形で、現地で日本語教室を開講していく、ということについて、違和感をお覚えになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、外国において日本語教室を開いて、日本語を教える、という行為自体が、日本文化の普及行為になっている、というふうに考えられないこともないですから、この点、異論はあるにしても、日本語教室のあり方として、私は、有り、としたいと思います。アメリカは車社会ですが、日本語教室が近くで開かれるなら、所有の車を売ることをしてでも、受講料を捻出して日本語教室を受講したい、と仰る方も、実際に、おられるのです。

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日本語を教える機関があるのか 2

Posted on 12/17/2010 at 7:31:04 PM

“さっきも言ったけれど、僕の国なんかでは、日本文化や日本語に興味を持っている人間が少なからず居るんだ。そうした人間が全て、大学へ行って日本語の研究をしたり、日本へ留学したり、僕のように英語教室の教師として日本へやってきたりすることができるわけじゃないんだ。
例えば僕の生まれ故郷のような、地方の小都市であっても、日本語を教える教室や、日本に関するセミナーを開いたりすれば、集客は出来ると思うんだけれど、どうだろうか?
そういうことが・・・そういう教室を、単発にでも開催していくことが、日本や日本人について、いろんな国の人に知ってもらういい機会になるんじゃないかな、なんて、僕は考えるんだよ。日本の勢力を伸張させよう、とかいうことではなくってね。外国との摩擦が起きそうになったとき、日本人や日本語について、相手により知っておいてもらうことは、決して、無駄にはならないと思うんだ。勿論、僕が国に帰ったら、日本語の教室の開こうと思っているさ。君にも、特別講師として、教室に参加してもらいたいものだね。なにしろ・・・僕の故郷では、よく知られた日本語、といえば、いまだに、“カイゼン”だの、“ツナミ”だのくらいだと思うんだ。あ、それと、あれ“ソウセキナツメ”くらいかなあ“

日本語という言語の懐の深さ、ということについてならば、私も、彼の国で話したいと思います。彼の日本語教室って、どんな教室なのか、見当もつきませんが・・・愉しいものであることは、請け合えそうです。

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日本語を教える機関はあるのか?

Posted on 12/15/2010 at 7:30:32 PM

“僕が日本へ来た当初の話さ。
日本のテレビで、いろんな外国語の教室や講座を放映しているよね。公共放送で、やっているじゃないか。あれは、いいシステムだと思ったね。思ったけれど、妙なことにも気がついた。某国と、某某国の母国語の教室だけ、その他の言語の教室よりも、1回につき、10分間、放送時間が長いんだ。これには驚いたね。
英語の教室の放送が手厚いのは知っているよ。それを棚に上げて、何を言っても、と思うかもしれないけれど・・・まあ、ここは、英語に関しては、ちょっと棚上げしておいてくれないか。
某国と、某某国については、これは私による推測だけれど・・・きっと、本国、というか、出先機関からの働きかけが強いんだろうね。公共放送へのさ。公共放送を管轄している、政府機関への働きかけが、だよ(笑)。
いいかい? 母国語の教室などを外国で開く、ということは、互いの国の必要に答える、ということの他に、“必要を作り出す”という意味合いもあるのさ。影響力を強くする、という意味合いさ。たかが10分間、と思うかもしれないけれど、全国放送の、毎週の10分間、再放送があるとすれば、20分間の違いは大きいさ。どういう経緯で、2カ国の母国語の教室だけ、そういうふうに特別扱いになっていたのかは知らないけれど、日本へ来たばかりの僕にとっては、とても興味深い発見だった。いや、両国の論理が興味深かったのではなくって、そういうことを軽々と容認しているように見える、日本という国や、日本語という言語に対して、だよ。外国語に対してとても寛容な国であるのに、日本人は、日本語を、海外へ広めることについては、臆病なようにも思えるんだけれど・・・“

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日本語で考える

Posted on 12/12/2010 at 7:30:15 PM

英語教室の教師である、6フィート3インチ(190センチ)で、紅毛碧眼の彼が、青い眼を見開いて、日本語で捲し立てます。

“日本という国は、面白い国だ。ほぼ、自然発生のような形で国土が成立している。島国、ということもあるんだろうけれど・・・。
日本語も、日本の国土同様、とても興味深い言語なんだよ・・・。
ほら・・・僕たちが英語教室でよく話すことなんだけれど・・・英語の主語は、アイ・マイ・ミーだ。それだけ。それこそ、社長様でも僕等でも、王様でもそうさ。ところが、日本語は違うね? 日本語教室で、僕たちが、真っ先に習うことさ。勿論、僕の日本語教室は独自のものだったけれど、僕の教室でだって、日本の小説を読んでも、日本の映画を観ても、主語の特定が出来ずに、最初は、途方に暮れたものさ。
日本語の小説には、一人称で書かれているはずなのに、主語を省略した書き方があって、あれには参ったさ。カリキュラムを組んだ日本語教室でだって、あの、主語の省略、という小説技法について、ちゃんと教えている教室は少ないんじゃないかな・・・。
とにかく、最初は戸惑ったよ。ところが、それから、暫くすると・・・私のように、独学の日本語教室で学んでいても、ちゃんとした教室で学んでも、だ。主語が無限(大袈裟かな)にあるような、日本語という言語の、なんというか、典雅さに、憧れのような気持ちを持ってしまうことがあるのさ。
そうなったら、もう、日本語の虜になっている、と、言ってもいい。僕のような面倒臭がりやが、日本語を、教室へ通って学んでみようか、というような気持ちになってくるんだ。独学の教室ではなくって、ちゃんとした、日本語教室へ、さ“

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外国語の教師 2

Posted on 12/10/2010 at 7:29:59 PM

自分のような西洋人が、本国には、少なからず、居る、と、友人の英語教師は、そんなふうに言っていたことがありました。彼の国は、嘗て、七つの海を制した、と言われた国です。海を渡って余所の国に押し出そうとする冒険心、と申しますか、所謂、“ふろんてぃや・すぴりつと”というものをオ旺盛に持ち合わせた若者が少なくない、ということについては、なるほど、そうかもしれないな、と、妙に感心したものですが・・・。彼が言うには、日本に感心を持った若者が少なくない、ということでした。日本と日本語・・・私たちにとっては故国ですし、母国語ですから、本当に大切な心の拠りどころであるわけですが・・・所詮は極東の島国です。もう半世紀以上も前の出来事になりましたが、分不相応にも、西欧世界に挑戦して、限られた地域において利権を確立しようとすることにすら見事に失敗したではないか・・・私は、彼に、日本語で、そのように話しました。偏狭においてさえ覇権を唱えること叶わなかった、と、私たちは、自身の国の国力の無さを、学校の教室において、幾度と無く、叩き込まれたものです。
であるのだから、現在1億2000万人の同胞が日本語を使う他、経済交流などで必要な人たち以外、日本語という難解な言語に興味を持っている外国人が、そんなに居るとは、思えないんですね。

“いや、そうではないんだよ”
流暢な日本語で、彼は話します。
“日本という国は、面白い国だ。ほぼ、自然発生のような形で国土が成立している。島国、ということもあるんだろうけれど・・・。
日本語も、日本の国土同様、とても興味深い言語なんだよ“

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外国語の教師

Posted on 12/7/2010 at 7:28:32 PM

私の友人に、英語圏からやってきた背の高い男がいます。昔風に言うなら、紅毛碧眼で、白人らしい白人です。少なくとも、その外観は。
彼は、日本と日本人、日本語に興味を持ち、日本語について独学で学んで一定の基準に達し、日本の学生向けに、英語を教えるという職業を得て、日本にやって来ました。
たまたま、私の住んでいる地域の高等学校へ配属されて、ひょんなことから私と出会い、意気投合して、殆ど日本語で、互いにコミュニケーションを取るようになりました。
彼は、英語を教える教室では、出来るだけ日本語は用いない、と話していました。しかし、来日した当初から、流暢な日本語を話していましたから、教室内で、英語だけでコミュニケーションを取ろうと試みることは、彼にとっても半ば苦痛だったことでしょう。例え、教室内では、英語のみを用いることが、英語教育に資することになるのだと得心していたとしても、です。
彼は独学で日本語を学んだ、ということでしたが、彼流の日本語教室、というものは、持っていたようです。持っていた、というのは、彼が、日本語を学ぶのに、日本の小説を読み、日本の歌を聴き、日本のニュースを見る、ということを、連動させて行っていたということ、それらのことを称して、我流の日本語教室、という言い方をしていたのです。
なるほど、と、思いました。例えば私が外国語を習得しようとするなら、きっと、彼に倣って、彼のやり方でいくことでしょう。日本語を覚えるなら、日本語に塗れることです。それが、即ち、“日本語教室”なのです。

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外国の小説も

Posted on 12/4/2010 at 7:28:17 PM

前の記事で立てた仮説を立証しようとすれば、反対の方向からも考察してみることが有益となるでしょう。
ここに外国語で書かれた小説があるとします。
私たちは、その外国の小説を、日本語に翻訳された形で手に取り、読むことが、まず、一般的な形式であるでしょう。あるいは学校の教室で、国語や、外国語の授業で、教材として、日本語に翻訳された外国の小説を手に取ることもあるでしょう。勿論作品によりますが、日本語で翻訳された作品は、その作品の世界観や地理的な特殊性をいささかも損なうことなく、物語として表現していきます。翻訳者の腕に負うところも大きいでしょう。これは面白い、と思えた作品を・・・あるいは、教室で嘗て読んだことのある作品を、後に、原語で読んでみよう、と思うときもあるでしょう。
実際に、原書に当たると、・・・これは、娯楽小説に多いのですが・・・存外素気ない表現の連続だったりして、拍子抜けすることがままあります。日本語で、あれだけ叙情的だった箇所が、原語では、決まりきった表現であったり、翻訳では10語も費やした箇所が、たった3語だったりなど・・・。
これらのことも、日本語の、言語としての懐の深さ、語彙の豊かさを表している、と、言えないでしょうか?
そして、それだけの懐の深さと、語彙の豊かさを持った言語であるがゆえに、多くの外来語や新語を含有しても、言語としての力強さを些かも減じずに、今日、私たちの国語として存在していられるのだ、と、結論つけるのは、乱暴でしょうか?

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私たちの国語のこと 4

Posted on 12/2/2010 at 7:28:02 PM

江戸時代の日本語と、現代の日本語が全く同じでは、現代の生活に言語が対応しきれず、これはこれで困ったことになっていまいます。そういうことは、現実に、ありえないでしょう。江戸時代に日本語教室のようなものがあったなら、その教室の日本語教師は、現代の日本語教室で日本語を教えることが出来ていては、それは、おかしいのです。
しかし、そういうこと・・・言語の変化の必然性・・・を念頭に置いていても、日本語の変化のスピードは速すぎる・・・そんなふうに、私には思えるのです。徹底している・・・と、そういう言い方をしてもいいでしょう。徹底的、とは、これは、おかしな言い方かもしれません。しかし、定期的に保守点検をしているフランス語があるとするならば、日本語は、まさに、徹底的に、自然の流れに任せて、自然成立させている、と、そんなふうにも思えるのです。
考えてみれば・・・外国の小説を、日本語に翻訳することは、容易であるように思えます。それだけ、日本語は、懐が深く、語彙も豊富なのです。このことは、日本の小説を、外国語に翻訳したものをちらと読んでみれば、納得できることと思われます。日本語で読んで傑作だと思われる小説も、外国語になると、本当に間口が狭い作品になっていまいます。あれ、この作品は、こんなだったか・・・と、拍子抜けするような思いがします。外国を舞台にして、日本語で書かれた小説が、その舞台となった国や地域の言葉に翻訳されてさえ、そうなのです。日本語で書かれた作品が普遍性に乏しい、ということよりも、日本語で表現する豊穣な世界を翻訳しきれる外国語が見当たらないように、私には思えるのです。

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私たちの国語のこと 3

Posted on 11/29/2010 at 7:27:48 PM

フランスなどでは、定期的に外来語のチェックと、排除、というようなことを行うんだと聞いたことがあります。政府機関がそれを行うらしいのです。国語としてのフランス語を維持する、という目的のもとに外来語を排除する・・・そういうことが、施策として、定期的に行われるのだそうです。
考えてみれば、母国語を、旧来のままに維持しようということは、不可能なことなのかもしれません。言葉というものは生き物ですから、それを使う人間と、人間を取り巻く環境が日々変わっていくなかで、言葉のみが旧来どおり、ということは、考え難いのです。
しかし・・・日本語の変化する速度は、本当に、半端ではありません。先ほど書いたフランス語と比べてみても、私においては、比較の対象にすらならない、と思えるほど、怖ろしい勢いで、日本語は、変わっていきます。例えば、ここで、私が、日本語を教える教室を開いたとしましょう。常に“現代日本語”を教えようとするなら、私は、教室の主宰者は、毎日のように、日本語の変化に対応するためのなんらかの工夫をしていく必要に迫られるでしょう。現代日本語の教室を開催しようとするなら、それくらいのスピード感を持っていないと・・・といったように、個人的には、考えております。
日本語は変化のスピードが速い、ということについて、私は、必ずしも肯定的な感情を持ってはおりません。それは・・・ある程度の変化は・・・・・・日本語も言語である以上、変わっていくことについては、致仕方のないこと、だと思っています。

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